敵までもが崇敬を寄せた戦国武将!関ヶ原の討死まで石田三成への忠義を貫いた「島左近」という男

雲川ゆず

日本史において、戦国時代は多くの武将たちが活躍した時代であり、人気がありますよね。そんな戦国時代において、味方の武将たちからだけではなく、民衆や敵方からも尊敬された人物がいました。

彼の名は、島左近(しまさこん)。石田三成の右腕として活躍した彼について、その有名なエピソードをいくつかご紹介したいと思います。

※左近というのは通称で、本名は島清興(しまきよおき)といいます。ただし、左近という名で広く知られていますので、この記事では「左近」で統一して表記します。

筒井家に仕えるものの、決別

島左近は、1540年(天文9年)、現在の奈良県である大和国に生まれました。島家は、代々筒井家に仕えていました。始めは筒井順慶に仕え、同じく重臣で有能だった松倉右近とともに「右近左近」と呼ばれて賞賛されていました。

しかし、跡を継いだ筒井定次と相性が合わず、左近は筒井家と決別します。

エピソード1:石田三成から提示された破格の条件

筒井家に仕えていたころから有能だったため、浪人となった島左近のもとには多数のスカウトが届きました。ちなみに、このとき左近は40代後半。誰にも仕える気がなかったと言われています。

島左近より20歳も年下だった石田三成も、声をかけた一人でした。最初は断られたものの、三成はあきらめませんでした。三成は、自分の俸禄4万石のうちの2万石を与えるという破格の条件を提示したといいます。その心意気に胸を打たれた左近は、三成に仕えることを決意するのです。

3ページ目 徳川家康からの誘いを断る

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