なんと「万葉集」にかけ算の”九九”が!奈良時代の人々は算数・数学をどれほど使いこなしていたのか

古代人と時間の観念

『日本書紀』では、日本で初めて時計を作らせたのは中大兄皇子だったと記録されています。斉明天皇の時代、中国や朝鮮の先進知識を学んだ中大兄皇子が、水時計(漏刻)を作らせたとされています。

それ以前、聖徳太子の定めた憲法十七条では、役人は朝早く出勤して夕暮れまで働くようにと、大ざっぱな勤務時間を指示しているに過ぎませんでした。

中大兄皇子が水時計を作らせるまでは宮中にも時計が存在しなかったようです。皇子は、中国をまねて官僚制度を導入するため、水時計ともに正確な時間の概念を導入して、役人を律しようとしたのでしょう。

奈良県の明日香村で発掘された水落遺跡は、その漏刻台ではなかったかとみられています。

実際、八世紀になって律令制度が完成すると、陰陽寮という役所に漏刻博士二名と守辰庁二〇名が配置され、時が計られるようになりました。

そのやり方はというと、一日を一二支に分割してそれを「一辰刻」と呼び、それがさらに四刻に分けられるというものでした。

で、時刻によってそれぞれの回数、太鼓が打たれました。例えば子と午の時には九つ、丑と未の時には八つ、寅と申の時には七つとなります。こうして、宮中などに時刻が伝えられたのです。

その時期には、少なくとも平城京の人々には時間の観念がかなり浸透していたと思われます。

たとえば、平城京から出土した木簡には、裏面に「巳刻・未時」などと記されていました。それは、文書を受け渡した時刻を記したものと考えられています。

2ページ目 奈良時代の人々の計算能力

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