紫式部の兄弟姉妹には、藤原為時長女(実名不詳)・藤原惟規・藤原為時三女(実名不詳)が知られています(紫式部は次女)。
ほか異母兄弟姉妹がいますが、今回は割愛しましょう。
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長女は為時が越前へ赴任する前に亡くなっていますが、三女は藤原信経(のぶつね、さねつね)と結婚しました。
今回はこの藤原信経について、その生涯をたどってみたいと思います。果たして紫式部の義弟は、どんな人物だったのでしょうか。
有能多才だけど、美的センスはいまいち?
藤原信経は安和2年(969年)、藤原為長(ためなが)の子として誕生しました。母親については詳しく分かっていません。
兄弟には嫡男の藤原通経(みちつね)はじめ、藤原公経(きんつね)・藤原頼経(よりつね)らがいます。
なお信経の祖父・藤原雅正(まさただ)は藤原為時の父でもあり、紫式部らはいとこ同士でした。
【藤原信経・略系図】
藤原雅正―藤原為長―藤原信経
藤原雅正―藤原為時―紫式部ら
長徳元年(995年)に六位蔵人(ろくいのくろうど)として一条天皇に仕え、また右兵衛尉(うひょうゑのじょう)・兵部丞(ひょうぶのじょう)・式部丞(しきぶのじょう)を兼任しています。
- 六位蔵人:天皇陛下の側近。身の回りの雑務を行うため、六位だけど内裏に昇殿できる特権を持つ人気ポジション。
- 右兵衛尉:宮中を護衛する(左右)兵衛府の三等官(じょう)。
- 兵部丞:全国の武官を管理する兵部省の三等官(じょう)。
- 式部丞:官僚の人事や教育などを管轄する式部省の三等官(じょう)。
六位蔵人の激務を通して高い実務能力を評価されたのでしょう。
現場を担う中間管理職として、各部署で引っ張りだこの人気だったようです。
しかしデザインセンスはいまいちだったようで、内裏の家具や調度品などを制作する作物所(つくもどころ)の別当(べっとう。長官)を務めた時は、清少納言からボロッカスに貶されてしまいました。
「あなた何なの、この図面は?もしこのまま家具を作ったら、ダサ過ぎてとても使えたものではないわ!中宮陛下の品位をも損ねることになってしまうの。やり直し!」
……とまでは言われてないでしょうが、こんなやりとりも清少納言の随筆『枕草子』に残されています。
長徳4年(998年)に従五位下となり、河内権守(かわちごんのかみ。員数外の国司長官、名誉職)に任じられました。
寛弘6年(1009年)ごろ越後守(えちごのかみ)に任じられ、翌寛弘7年(1010年)ごろに藤原為時三女と結婚します。
彼女の子供かは分かりませんが、藤原信経には藤原行宗(ゆきむね)・藤原則経(のりつね)という息子たちがいました。
寛弘8年(1011年)には越後守を辞任し、その後任として舅の為時が今度は越後守になります。
京都に戻った信経は内蔵権頭(くらのごんのかみ)を経て、長和3年(1014年)に再び越後守となりました。
もちろん為時と入れ替わり、この人事は何だか不思議な感じですね。
それ以降、信経の動向はうかがえず、いつ世を去ったのかも不明となっています。