徳川家康をも訓育した”黒衣の宰相”!今川家の繁栄に尽くした名軍師・太原雪斎の足跡を追う

歴史 好き太郎

隠れた名軍師

太原雪斎(たいげん・せっさい)は今川義元の軍師で知られていますが、なにせ今川義元が敗将なだけに、その名前は黒田官兵衛などの軍師に比べると知られていないところがあります。

しかし彼は加持祈禱に知悉しながら卓越した外交力も発揮した名軍師で、戦国時代前期の、占いや天文学で軍師としての役割を果たした軍配者タイプの軍師としては屈指の人物と言えるでしょう。

今回はそんな雪斎の足跡を追ってみます。

彼は諱を太原といい、字を崇孚といいました。したがって正しくは太原崇孚であるが、号の雪斎の名の方が有名です。

彼は明応5年(1496)、今川氏親の重臣庵原左衛門尉の子として生まれました。どんな理由があったかは不明ですが幼くして仏門に入り、はじめは富士の善得寺、ついで京都の建仁寺龍泉院で修行しています。

その雪斎に、今川氏親の五男養育の依頼があり、雪斎は善得寺に戻るとその子の養育にあたることになりました。この五男が栴岳承芳、のちの今川義元です。

雪斎はこの承芳を伴って、はじめ建仁寺、ついで妙心寺で修行を続けています。

安城城攻略と人質交換まで

ところが、今川家の家督を継いでいた兄の氏輝が亡くなり、もう一人の兄である玄広恵探と、雪斎が養育した承芳との家督争いが勃発します。この争いには承芳が勝ち、12代将軍・足利義晴から「義」の一字を与えられて義元と名乗ることとなりました。

このとき雪斎は、亡き氏輝の菩提寺として建立された臨済寺の住持になると共に、義元の帷軽に加わることになりました。

今川義元が、雪斎を自らの屋敷に近い臨在寺の住持として据えたことからも、その揺るぎない信頼関係が分かります。

これが軍師としての大原雪斎の誕生で、まわりからは執権黒衣の宰相などと呼ばれるようになります。

さて、義元が天文15年(1546)から三河に侵攻したとき、今川軍を率いていたのは義元ではなく、実は雪斎だったことはあまり知られていません。

同17年3月の三河小豆坂の戦いで織田信秀を破ったときも、今川軍の大将は雪斎でした。

その雪斎の軍師としての働きがよくわかるのが、その翌年の安城城の戦いです。安城城を守っていたのは織田信秀の長男・信広ですが、雪斎は城攻めにあたり「信広を殺すな。生け捕りにせよ」と命じています。

そうして信広を生け捕りにして、織田方に取られていた松平竹千代、のちの家康との人質交換を成功させているのです。

なお、雪斎がその竹千代に兵法を教えていたことも『武辺咄聞書』から伺えます。

3ページ目 三国同盟も締結

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