江戸時代、手紙や荷物を運んでくれる飛脚(ひきゃく)は大活躍していました。
もともと幕府の公用便として始まった飛脚は、各宿場にある問屋場(といやば)で人夫や伝馬の継立てを行ったことから、「継飛脚(つぎびきゃく)」と呼ばれるようになります。
※継飛脚のスゴさ↓
江戸時代の飛脚がハンパない!江戸から京都をわずか3日で走破していた幕府公用の継飛脚とは?
その後、上方にいる武士が江戸にいる家族に手紙や荷物を届けるようになり、武士たちによって独自の飛脚ルートが作られました。
さらに、上方の商店が江戸に支店を出したことで、民間にも飛脚利用者が増えるようになります。ただし、民間人は問屋場を利用できないことから、当初は武士の飛脚に便乗する形で始まったそうです。
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飛脚に特急を頼むと45万円もかかった?!
江戸に進出する商店が増えたことで、飛脚も発展していきます。そうして、民間の飛脚が幕府に認められたのは寛文3年(1663年)のこと。
継飛脚は元禄9年(1696年)で大阪ー江戸間を約4日、宝暦13年(1763年)になると普通便では約5日でしたが、最急便だと約3日の速さでした。しかし、民間の飛脚は継飛脚ほど速くはありません。
民間の飛脚は大阪ー江戸間を約8日、遅いと一か月もかけて荷物を届けていました。ただし、民間でも特急だと約6日で荷物を運びます。この特急便、文化年間(1804年から1818年)ごろで約45万円もしたそうです。
これほどの金額をかけてまで荷物を運ぶ理由として、商人にとって重要な商機があったからでしょう。ちなみに、普通便だと1700円程度でした。
江戸市中限定の飛脚便は庶民的な値段
公用便から始まった飛脚は、武士や商人を経て町民たちにも親しまれるようになります。そうして、江戸市中限定の飛脚も登場するのです。その呼び名を「チリンチリンの町飛脚」といいます。
どうしてそのような名前なのかは、飛脚の格好に由来しています。
江戸市中を走っていた飛脚は、手紙や荷物を入れた箱をくくりつけた棒をかついでいましたが、その棒の先端に鈴をつけていたからです。そのため、飛脚が走ると鈴が「チリンチリン」と鳴っていました。
江戸市中の飛脚便は、江戸四里四方で24文から34文(約240円から340円)だったそうです。浅草田町から吉原まで往復で50文だったので、庶民でも気軽に利用していたでしょうね。
参考書籍