聖徳太子の素顔
【前編】では、聖徳太子こと厩戸王に関する政治的実績や通説をほぼ全否定してきました。「今まで日本史で学んできたことは何だったんだ」と頭を抱えている人もいるかも知れませんね。
日本史上屈指の偉人・聖徳太子の実績を全否定!『日本書紀』によって歪められた人物像【前編】
否定される聖徳太子の功績冠位十二階や十七条の憲法の制定で知られる聖徳太子は、紙幣の肖像に採用されたこともある人物です。おそらく、日本で最も有名な偉人のひとりと言っても過言ではないでしょう。…
では実際の彼はどんな人物だったのでしょうか?
かつての日本史で聖徳太子(厩戸王)があれほど政治面で評価され、肖像画がお札にまで採用された大きな理由は、やはり『日本書紀』(以下、書記)のせいです。
書紀には、「厩戸を皇太子に立てて政を執らせ、万機をことごとく委ねた」とあります。これが、厩戸王への評価が偏ったものになった一因です。
しかし、皇太子制度ができたのは厩戸王が亡くなった7世紀半ば頃のことです。彼が「皇太子に立て」られること自体がおかしいのです。
それに、皇太子に立てられたとする当時の厩戸王の年齢は20歳くらいと推定でき、とても政治を主導できる年齢ではありませんでした。
建造物に残された手掛かり
では改めて、実際の彼はどんな人物だったのでしょうか?
手掛かりは、厩戸王の死の翌年に制作された法隆寺釈迦三尊像にあります。その光背に、厩戸王を「法皇」とする銘、つまり仏教と関連付けた銘が刻まれているのです。
また、書紀の中の脚色が多い記述を除くと、厩戸王の名前が最初に出るのは斑鳩宮の造営に関する部分から (605年/32歳前後)。これも大きな手掛かりです。
斑鳩宮は厩戸王の宮殿で、法隆寺造営と並行して造られたものです。働き盛りの時期に独立して寺院造立に専念し始めたとすると、彼が仏教興隆に熱心な皇子だったとは言えそうです。
総括すると、【前編】でも簡単に述べた通り、彼は政治を主導する立場ではなくあくまでも「協力者」としての立場だったと考えるのが妥当でしょう。