幕末、開国を迫ったペリー提督は実はたくさんの「おみやげ」持参だった!おみやげ戦略の意図とは

歴史 好き太郎

二度目のペリー訪日

ご存じ、アメリカ海軍のペリー提督が、黒船を率いて浦賀沖に現れたのは1953年のことです。

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彼は、日本に開国を求めるフィルモア大統領の親書を携えてきました。

これに対し徳川幕府は、「ぶらかし(のらりくらり作戦)」で対応することを決定します。「返事はもう少し待って欲しい」と繰り返したのです。

ペリーはこれを受け、一年後に回答を聞くことを約束して上海へと戻りました。

その後、ペリーは12代将軍・家慶が亡くなったというニュースを聞きつけます。また、ロシアの動きに対抗する意図もあり、前回の訪問からまだ半年しか経っていないにもかかわらず、1854年2月にまた日本を訪れました。

おみやげに幕府も感動

この時ペリーは、幕府の用意した横浜接待所で条約の内容について交渉。その中で、お土産として持参した数々の文明の利器を披露しています。

それは電信機や汽車の模型・時計・望遠鏡・鉄砲・サーベル・羅紗・農機具などで、当時の将軍や全権委員たちはこれらを贈られたのです。

ちなみにこの時は、一キロメートルほどの電線を引いて電信機のデモンストレーションも行われました。打たれた文字は「YEDO」「YOKOHAMA」で、この時に使われた電信機は今も東京の郵政博物館に保存されています。

またペリーはレールを敷いて、模型の汽車を走らせたりもしました。今の時代から見ればまるきり子供のオモチャですが、当時としてはかなり画期的なアイテムだったのでしょう。これも幕府海軍所で保存されていましたが、残念ながらその後、火災で焼けています。

幕府側は、もちろんこうした初めて目にする数々の文明の利器に大喜びしました。記録では「あくことなき歓びと驚きをもって眺め、汽笛を鳴らすことに歓声を抑え切れなかった」とあります。

2ページ目 ペリーの「おみやげ戦略」?

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