戦国時代には、虎や龍、鬼といった馴染のあるあだ名が武将たちにつけられましたが、中には黄斑という珍しいあだ名が付けられた武将がいました。
その人物は長野業正(ながの-なりまさ)、上州の黄斑(虎の別名)とあだ名付けられた人物です。
業正自体、あまり馴染み深い人物ではありませんので、どのような活躍をしたか知らない方が多いかもしれません。
そんな人物ですが、実は武田信玄の侵攻を6回も退けた隠れた名将でありました。
この他にも業正の活躍は数多くありますので、生涯を追いながらご紹介します。
実は名前が不明な人物
業正は延徳3年(1491)に産まれます。父に関しては未だ不明で、長野憲業と長野信業、長野方業の3人が挙げられています。
当の本人も史料には長野信濃守しか確認できず、業正が実名である根拠は未だ確認されておりません。
長野氏は上野国(現在の群馬県)西部に勢力を持っており、箕輪城を拠点とした箕輪長野氏と厩橋城(後の前橋城)を拠点とした厩橋長野氏と居城によって分かれていました。
当の業正は箕輪長野氏で周辺の豪族や国人と婚姻関係で固めつつ、集団として取りまとめていました。ちなみに、その集団は箕輪衆と呼ばれています。
山内上杉氏に仕え、子を失う
そして、業正は関東管領の山内上杉氏に仕え、業正の甥で白井長尾家の長尾景誠が暗殺された際に白井長尾家の実権を握ったことで、山内上杉氏での地位を向上させました。
そして天文16年(1546)には、山内上杉氏の憲政(のりまさ)と扇谷上杉氏の朝定、古河公方の足利晴氏の連合軍に北条氏康が夜襲を仕掛けた河越夜戦が勃発。
業正もこの戦いに参戦しましたが、16歳の長男・長野吉業を失う悲劇に見舞われました。
これ以降山内上杉氏は徐々に衰退していき、憲政は天文16年(1547)に起こった小田井原の戦いに、業正の忠告を聞かずに出陣するも武田信玄に惨敗。
そして、山内上杉氏の居城である平井城が後北条氏に攻略されると、天文21年(1552)に業正は憲政のもとを去りました。