武力で開国、しかし…
嘉永6年(1853)6月、日本の浦賀に突如4隻の艦船が出現しました。言わずと知れた黒船来航です。アメリカ合衆国海軍東インド艦隊が、日本に開国を迫ってきたのです。
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アメリカ船の来航は初めてではなかったものの、この時の黒船来航が特別視されるのは、艦隊指揮官のマシュー・ペリーが軍事行使すら辞さない強気の態度をとったからに外なりません。
実際、ペリーは幕府に無断で江戸湾を測量し、国書の受け取りを拒否すれば武力行使も辞さないと浦賀奉行を脅迫しています。さらには江戸城に向けて空砲も放っているのです。
こうした攻撃的な態度から、「ペリーは粗野で好戦的な人物だ」という印象を持つ人も少なくないでしょう。
確かに、ペリーが武力を背景に日本を開国させたことは事実ですし、琉球占領を視野に入れるなどの手荒な手段も考えていました。
当時の大統領から「交渉はできる限り穏便に」と命令を受けていたにもかかわらず、ペリーは日本を恫喝しているのです。
しかし、ペリーが本当に武力行使する可能性は、極めて低かったことが分かっています。彼のやり方はあくまでも「武力行使も辞さない態度を見せる」のが第一で、本当に攻撃する気はほとんどなかったのです。
なぜそう言えるのでしょうか。そもそも彼はどんな人物で、どのような態度で日本に臨んでいたのでしょうか。