脚色と誤解の数々…実は石田三成と徳川家康は険悪な仲ではなかった!二人の関係の誤解を解く【後編】

歴史 好き太郎

「石田三成・上杉景勝共謀説」のあらまし

【前編】では、石田三成と徳川家康の間には感情的な対立はなかったことを説明しました。

脚色と誤解の数々…実は石田三成と徳川家康は険悪な仲ではなかった!二人の関係の誤解を解く【前編】

険悪な関係ではなかった家康・三成関ヶ原の戦いに至るまでの経緯については、豊臣秀吉亡き後の豊臣家維持に奔走する石田三成が、野心をあらわにする徳川家康と感情的に対立し、ついに対決することになった――と…

徳川家康が、豊臣政権の実力者たちを排除することを目論んでいたのは間違いありませんが、それが三成への個人攻撃となったことはなく、あくまでも彼は数あるターゲットの一人に過ぎなかったのです。

今回の【後編】では、三成が上杉景勝と盟約を結んで家康を討とうとしたという共謀説に関する世間の誤解について取り上げていきます。

この共謀説は、三成と家康の関係に関する誤解の最たるもののひとつです。

まず、上杉が会津まで徳川軍をおびき寄せる。その隙に三成は京を押さえつつ挙兵し、徳川軍を会津と京から挟撃する——。これが、一般的に知られている共謀説のあらましです。

三成が、上杉討伐を機に挙兵したのは事実ですし、共謀説を裏付けるかのような史料も確かに存在しています。

その史料とは三成が上杉家家老の直江兼続に宛てた書状で、そこには「家康は伏見を出馬し、かねての作戦が思うとおりになり、天の与えた好機と満足しています」「私も油断なく戦いの準備をいたします」とあるのです。

この史料は延宝8年(1680)に成立した『続武者物語』に掲載されているものです。

直江兼続は上杉景勝の腹心であり、上杉家の勢力を削ぐために家康は会津に兵を差し向けました。しかし三成が挙兵したと知ると軍を引き返し、関ヶ原にて三成軍と衝突しています。

こうした経緯と照らし合わせると、上杉と光成の共謀説はそれなりに辻褄が合うと言えるでしょう。

3ページ目 無理がある密約

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