実の息子を毒殺疑惑!戦国時代、“奥羽の鬼姫“の異名を持った「義姫」は本当に悪女だったのか?

拾丸

伊達政宗の母親で最上義光の妹・義姫

男勝りな性格で激情家として知られており、奥羽の鬼姫の異名を持っておりました。そのような性格と政宗との確執からか、義姫は悪女のイメージがつきまとっています。

実際のところ、義姫は悪女だったのでしょうか。

今回はそんな義姫にまつわるエピソードを3つご紹介し、悪女か否かを考えたいと思います。

兄のために戦を止めた義姫

1つ目のエピソードは天正6年(1578)の頃。

この頃は義姫の夫・伊達輝宗が最上義光(もがみ-よしあき)を裏切った上山満兼(かみのやま-みつかね)と協力し、最上領に侵攻した柏木山の戦いが勃発しておりました。

義姫は永禄7年(1564)より輝宗に嫁いでおり、兄・義光が攻められていたとしても伊達氏の味方をしないといけません。

義姫と義光は仲が良いことで知られており、この状況を義姫は静観できなかったのでしょう。なんと、自ら駕籠に乗って戦場に赴き、輝宗に抗議

義姫の意地に押し負けた輝宗は義光と和睦を結び、兵を撤退させました

義姫は義光が父の最上義守と出羽国にいた国人連合・最上八楯の外交方針で争った際、「不甲斐なし」と言って義光の頬を叩いたことから、兄のことを誰よりも心配していたと思われます。

それ故に輝宗に無理を言って和睦を結ばせたとうかがえます。

4ページ目 長期間戦場に居座り和睦させた義姫

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