和泉式部に対する評価
【前編】では、紫式部が、同時代を生きた清少納言をどのように評価したのかを紹介しました。
清少納言・和泉式部・赤染衛門…紫式部は同時代の女性たちをどう評価したのか?【前編】
当時の式部の同僚達には、文才のある魅力的な女性たちが多くいたとみえ、さらに宮廷内での男女関係もあいまって、彼女の周囲は艶っぽい空気感だったことが窺い知れます。
よって、式部は彼女たちの素行と文才をあわせて評価しています。
例えば、有名なのが和泉式部です。寛弘6(1009)年に彰子の女房となった、紫式部のいわば後輩にあたります。
和泉守・橘道貞の妻として娘をもうけながら、冷泉天皇の第三皇子・為尊親王、続いてその弟・敦道親王との恋愛によって結婚生活を破綻させたとされています。
父親である大江雅致はついに娘を勘当し、藤原道長も彼女を浮かれ女と呼びました。
これだけでも彼女の評判が悪いのは想像がつきますが、実は紫式部は、彼女を次のように評しています。
和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。
(和泉式部には感心できない面もありますが、ちょっとした走り書きの文中にも、その方面の才能のある人で、何気ない言葉遣いに色つやが見えるようです。和歌にはとても趣があります)
当時の和泉式部の評判は、おそらく散々だったと思われます。しかし紫式部は公平な視点から、彼女の文才を認めていました。
数々の男性との浮名を流し「恋多き女」として有名な和泉式部。現在では、彼女は勅撰集に200首以上が選ばれるほどの歌人として有名で、また敦道親王との恋愛を綴った『和泉式部日記』の著者としても広く知られています。
おそらく和泉式部という女性は、多くの男性を虜にする魅力と文才に溢れていたのでしょう。