毛利元就、宇喜多秀家と並んで中国の三大謀将と呼ばれた尼子経久(あまご-つねひさ)。
他にも謀聖や雲州の狼といった異名も持ち合わせておりますが、一度居城の月山富田城(がっさんとだじょう)を失うも意外な方法で城を取り戻しておりました。
果たして、その方法とは何だったのでしょうか。
そこで今回は、経久が居城である月山富田城を失った理由と取り戻した方法をご紹介します。
強引な地盤固めで城を失う
長禄2年(1458)に生まれた経久は、文明10年(1478)までに家督を父・尼子清定より継承しています。
この時の尼子氏は、出雲や近江等の守護を務める京極氏の代わりに国を管理する守護代として出雲国に滞在しておりました。
これを好機とみた経久は、国人たちと協力関係を築き始めます。そして、京極氏が持つ寺社領の横取りや美保関公用銭の段銭の徴収拒否を繰り返し、独自の基盤を築きました。
しかし、経久の行き過ぎた行為に室町幕府や京極氏の反感を受けてしまい、文明16年(1484)に居城の月山富田城を包囲されてしまいます。
その上、守護代を剥奪されたことで経久はすべてを失ってしまいました。