徳川慶喜による議会制の提案
日本に憲法の概念が生まれたのは明治維新以後とされていますし、今でも多くの人がそう考えていることでしょう。
これまでの通説では、国内で国会開設運動が高まった結果、政府も憲法制定を決定し、大日本帝国憲法の施行によって、君主を憲法で制御する立憲君主制が日本でも誕生したことになっています。
しかし近年の学説では、こうした流れは否定されています。
明治維新以後どころか、幕末期、江戸幕府ではすでにそれに近い政治体制が考案されていたのです。
今回は、江戸幕府が発案していた立憲君主制と、幻と消えた「徳川新政府」の政治構想について見ていきましょう。
徳川慶喜は、自分が将軍に就任りた理由について、後年こう述べています。
「徳川家康は日本のために幕府を開いたが、自分は日本のために幕府を葬る任にあたるべきだと覚悟を決めた」
もともと、慶喜は幕藩体制の限界をよく理解しており、時代が明治へと変わる前から、新しい政治体制への移行を模索していました。
ここで慶喜が目指した新しい政治体制の中核が議会の開設でした。実際、大政奉還の上表文にも「広ク天下ノ公儀ヲ尽クシ」という一文があり、これは幕府消滅後の議会開設を謳ったものと解釈されています。
つまり徳川幕府は、明治維新後に自由民権運動でようやく実現したとされている議会制の導入を、それよりもずっと以前から計画していたことになります。