皇極天皇4年(645)に勃発した、「乙巳の変(いっしのへん)」。
この政変は朝廷を牛耳った権力者・蘇我入鹿(いるか)を中大兄皇子と中臣鎌足が暗殺に追い込んだ事件であることはご存知かと思います。
しかしながら、入鹿に手を下したのは中大兄皇子(後の天智天皇)や中臣鎌足ではないことはご存知だったでしょうか。
実際に入鹿を暗殺したのは佐伯子麻呂(さえきの-こまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎの-わかいぬかいの-あみた)と呼ばれる貴族で、暗殺を失敗しかけた人物でもありました。
今回はその二人がどのような人物かを紹介しつつ、乙巳の変での活躍と裏話、その後についてもご紹介します。
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鎌足よりスカウト
子麻呂、網田ともに出身地や生まれた年は不明です。ただ、佐伯氏は宮廷警護の任務で王権に仕えるようになった氏族で、稚犬養氏は犬の飼育で王権に仕えた後に宮廷警護も担当した氏族であります。
また、葛城稚犬養氏は葛城(のちの大和国で現在の奈良県)に居住していたことから名付けられました。
そのことから、子麻呂も網田も由緒ある生まれの人物であることがわかります。
そんな2人は入鹿を暗殺するのに持ってこいの武勇を持ち合わせていたので、皇極天皇3年(644)に中臣鎌足からスカウトされました。