大坂の陣で尽力!!戦国武将・大野治長の3人の弟たちの活躍と最後を紹介【どうする家康】

拾丸

豊臣秀頼の重臣で、大坂の陣の中心人物である大野治長

母が淀君の乳母であり、淀君とは乳兄妹の関係だった治長には、大野治房(はるふさ)・大野治胤(はるたね)・大野治純(はるずみ)の3人の弟がいました。

治長含め四兄弟は、全員大坂の陣に関わりがありますが、治長に焦点が行きがちで他の3人の活躍はあまりご存じない方の方が多いのではないでしょうか。

そこで今回は、兄・治長の影に隠れてしまっている3人の弟の活躍をご紹介します。

主戦派の筆頭で兄と対立した治房

治長の長弟に当たる大野治房は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では船場方面の守備を任されていました。しかし、戦況の悪化により治長は船場を捨てるよう命じましたが、治房は拒否。

困った治長は治房を軍議と称して、呼び出した末に拘束し、船場の各砦に火をかけました。

この火によって守備兵たちは撤退すると踏んでいましたが、突然の火に混乱してしまい、挙げ句の果てに徳川軍に砦を占拠されてしまいました。

以後、治長との関係は決裂し、主戦派の筆頭として和睦派の治長と対立します。そして、和睦は成立すると、治房は刺客を用いて治長を襲撃する事態にまで発展しました。

翌年の大坂夏の陣では、2000人の兵を率いて筒井定慶が守る大和国郡山城を攻略(郡山城の戦い)。その後は、大和方面より攻めてくる浅野長晟に対して、紀伊での一揆を皮切りに戦いを仕掛けることを画策します。

しかし、和泉国樫井まで撤退した浅野軍と大野軍の塙団右衛門が戦いを始めてしまい、大野軍は壊滅状態となり大坂城へ撤退しました(樫井の戦い)。

撤退後は、天王寺・岡山の戦いに岡山口の大将として出陣。徳川秀忠の陣まで殺到し、秀忠軍を混乱に陥れる活躍を見せます。

しかし、立て直されてしまったことですぐさま大坂城へ撤退しました。そして、城内に火の手が上がると、玉造口から逃亡し、行方をくらませました。

その後の治房について、京都で捕縛された末に斬首された説や逃亡せず大坂城で焼死した説、秀頼の庶子・国松と共に逃亡したが、土民に殺害された説など諸説あります

2ページ目 堺を焼き討ちした橙武者・治胤

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