山に登ることから登山に対する興味が増し、険阻な山とされていた八海山の登山で、母親に登山を禁止されたことから、不満を晴らすために、金と暇を、山岳研究にそそぐようになります。
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山岳信仰や修行、狩りの為だった「登山」を国民的スポーツにした男・高頭仁兵衛【その1】
かつて日本で、「山登り」といえば、山岳信仰・修行などの宗教的な理由や、狩りなどをして生計を立てるため、いわば生きる上で必要なものでした。一方、近代になると、「山登り」にレジャーやスポーツの価値…
山に関する書物を買い集め、古老や山に登る人を探して話を聞き、陸軍の陸地測量部を訪ねて山の位置や標高を、確かめたりしました。
地味ではありましたが、堅実な行動力で、およそ6年の歳月をかけて、我が国で初めて山岳辞典を兼ねた案内書『日本山嶽志』を3000部も自費出版。当時としても、一個人でかなりの部数を出版しました。この書は、今でも、登山家の必読の書となっています。
このほか、『日本太陰暦年表』上・下巻、『御国の咄』を刊行。山嶽志の姉妹編ともいえる『日本河川誌』は未刊に終わってしまいましたが、そのうちの一部は当時の会報「山岳」に掲載されました。
ちょうど同じ時期に、日本山岳会の設立機運が高まっていました。『日本山嶽志』の編纂過程で、同郷の衆議院議員・大竹貫一という人物の紹介で、『日本山水論』を著した志賀重昂を訪れた際、そこで、イギリス人宣教師ウェストンが山岳会の設立を勧めていた日本アルプス探検家の小島烏水(こじまうすい)のことを知ります。