酒は飲んでも飲まれるな。
この言葉はお酒の飲み過ぎで自分を見失うことなく、適量飲むことが大事の意味を持つことわざです。
現代でも通ずることわざで、お酒に飲まれてしまったが故の失敗談を持つ方もいるかと思います。大なり小なりの規模はあれど、大半の失敗談は笑い話に昇華できますが、戦国時代ではそうはいきません。
特に、本多忠勝の次男である本多忠朝(ほんだ-ただとも)の失敗談は衝撃的で、後に自身が「酒封じの神様」になったほどでした。
そこで、今回は本多忠朝の生い立ちとお酒の失敗談を紹介します。
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父並みの武勇をもつ忠朝
天正10年(1582)に生まれた忠朝は戦に出ることがなく、初陣となるのが慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでした。
この時、父の忠勝と共に従軍した忠朝は、間に合わなかった徳川秀忠の軍に従軍していた兄の忠政の分も活躍。
あまりにも激しく戦ったことから太刀が鞘に収まらなかったと言います。
親子共々の功績により、忠勝は所領である上総国大多喜(現在の千葉県大喜多町)に加増という形で新たな領地・伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)が与えられました。
しかし、忠勝がそれを拒否したことで、忠朝は大多喜を与えられ、19歳で大名となりました。