関ヶ原の戦いで活躍した織田有楽斎&長孝父子。しかし家康からの評価は散々……【どうする家康】

織田信長の弟として生まれ、苛烈な兄とは異なり茶人として生きた織田有楽斎こと織田長益。

有楽町の由来にもなった?本能寺の変で逃亡した「逃げの有楽」こと織田信長の弟・織田有楽斎の人生

織田信長――2023年の大河ドラマ『どうする家康』で大きな存在感を放った彼ですが、他にもさまざまな大河ドラマでそうそうたる役者がその役を演じてきました。歴史を少しでも習ったことがあれば、恐らく…

あまり武勇にすぐれたイメージはないものの、やはり彼も戦国乱世をしたたかに生き抜いた一人の武士。戦場では武勲を立てたこともあります。

時は慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原合戦においても、有楽斎は息子の織田長孝と共に敵の首級を獲りました。

戦いは昼過ぎの未の刻(午後2:00ごろ)に終わり、二人は獲った首級を東軍の総大将・徳川家康に献上するのですが……。

敵将・蒲生頼郷を討ち取った有楽斎

……織田源五郎入道有楽は石田が家臣蒲生備中が首を提げ来りしかば。有楽高名めされしなと仰あり。入道かしこまり年寄に似合ざることと申上れば。備中は年若き頃より用立し者なるが不便の事なり。入道さるべく葬られよと仰らる。……

※『東照宮御実紀附録』巻十「家康感謝黒田長政」

「……入道殿、此度の戦は大儀であった」

「ありがとうございます」

家康からねぎらいの言葉を賜った有楽斎。さっそく首級を差し出しました。

首級の主は蒲生頼郷(備中守)。西軍の石田三成に仕えた猛将で、主君を逃がすために最期まで戦い抜いた忠勇の士です。

「おぉ、備中か。よう倒されたな」

「歳も考えず、鎗働きなどいたしました」

家康に褒められ、少し得意げに謙遜した有楽斎。しかし家康の顔は哀しみに曇ります。

「……内府様?」

いぶかしむ有楽斎に、家康は答えました。

「この備中めは、若い頃より用立つ者であった。出来れば生かして召し抱えてやりたかったが、不憫な事よ……」

今にも泣き出さんばかりの家康に、有楽斎は戸惑いを隠せません。

これではまるで、蒲生頼郷を討ち取ったこちらが悪いみたいではありませんか。

「……まぁ、これも武門の習いなれば致し方あるまい。入道殿、どうか備中を、懇ろに弔ってやってくれ」

「御意」

実に後味の悪い思いで、有楽斎は御前を退出したのでした。

3ページ目 戸田重政を貫いた村正の槍が……

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