戦さなき世を実現するため、今は屈辱を耐え忍んで豊臣秀吉へ臣従した「我らが神の君」こと徳川家康。
家康が秀吉に仕えたということは、家康の家臣たちは秀吉の陪臣、つまり家臣の家臣という扱いです。
そなたの家臣はわしの家臣、わしの家臣はわしの家臣……という訳で、秀吉は徳川家中の有能な家臣を次々と引き抜きにかかりました。
今回は三河一の色男?こと大久保忠世のエピソードを紹介。果たして彼はどんな待遇を持ちかけられたのでしょうか。
人望厚く、武勲を重ねた大久保忠世
○大久保忠世
平右衛門忠員の子、新十郎と称す、後七郎右衛門尉と改む。小田原四萬五千石を領す。文禄三年九月十五日卒、年六十三。
忠世、人となり慈愛、其下皆之が為めに死するを願へり。故を以て戦ふ毎に先登して功多し。……
※『名将言行録』巻之五十 大久保忠世
【意訳】大久保忠員(ただかず。平右衛門)の子、通称は新十郎。のちに七郎右衛門と改める。
相模国小田原に45,000石の所領を得て、文禄3年(1594年)9月15日に63歳で世を去った。
慈愛深き性格で、彼に仕えた誰もが「あの人のためなら、生命も惜しくない」と心酔するほど。
それで数々の合戦で先登(せんど。一番乗り)の武功を重ねるのであった。
……文中にある小田原四萬五千石というのは、他でもない秀吉から授かったもの。
時は天正18年(1590年)、秀吉が関東の覇者・北条一族(小田原北条氏)を下した後の事です。