大坂の陣で壮絶な最期!石川数正の次男・勝千代(石川康勝)がたどった生涯【どうする家康】

徳川家康(とくがわ いえやす)のブレーンとして、永年その天下取りを支え続けた石川数正(いしかわ かずまさ)。

彼には石川康長(やすなが)・石川康勝(やすかつ)・石川康次(やすつぐ)などの息子たちがいました。

※『寛政重脩諸家譜』より。ほか史料によって石川成綱(なりつな)・石川政令(まさよし)・石川定政(さだまさ)がいたとも言われます(諸説あり)。

今回は石川数正の息子たちから石川康勝を紹介。果たして彼はどんな生涯をたどったのでしょうか。

父と共に秀吉へ寝返る

石川康勝は生年不詳、その幼名は勝千代(かつちよ)と言いました。

※兄の康長が天文23年(1554年)生まれなので、康勝はそれ以降の誕生と考えられます。

元服して石川数矩(かずのり。員矩)と改名。後に家康から康の字を拝領して康勝と改めました(便宜上、本稿では康勝で統一)。

※また文献によって石川貞矩(さだのり)と表記ゆれがあるものの、これは員を読み間違えたものでしょう。

通称は肥後守、これは朝廷から正式に任官したものではなく私称(官途名)です。

天正12年(1584年)に家康の次男・於義丸(おぎまる。後の結城秀康)が羽柴秀吉(はしば ひでよし。豊臣秀吉)の養子に出されると、兄と共に随行しました。

翌天正13年(1585年)に父が家康の元を去り、秀吉に寝返ると康勝もそのまま秀吉に仕えます。

2ページ目 豊臣政権での活躍

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