日本憲政史上の「負の大物」のひとり・近衛文麿とは何者だったのか【前編】

生まれは「五摂家筆頭」の近衛家

戦前に活躍(?)した近衛文麿家柄よし、見た目よし、頭もよしと三拍子揃った人物で、首相には二度指名され内閣を三度組閣しています。「大物政治家」と言って差し支えないでしょう。

しかし彼は、日本が泥沼の戦争に足を踏み入れたそもそものきっかけを作った、日本憲政史上突出した「負の大物」でもあります。今回はその人物像について探ってみましょう。

彼が生まれたのは1891(明治24)年。五摂家筆頭の近衛家の長男として生を受け、父親は貴族院議長も務めた公爵・近衛篤麿でした。

五摂家というのは代々関白に任ぜられる家柄のことで、近衛家はその中でも最も位が高いものでした。

青年期の文麿は京都帝国大学に在学。大学時代にはマルクス主義者となる直前だった河上肇から薫陶を受け、哲学者の西田幾多郎にも関心を寄せて若干の関わりを持つなど勉学に励む秀才だったといいます。

学生時代の彼のユニークなエピソードに、後に妻となる千代子に一目惚れして学生結婚したというのがあります。第一高校時代の近衛は、華族女学校に通っていた千代子を電車内で見かけて、その美貌に一目惚れして猛アタックし結婚しているのです。

ちなみに近衛の次女の温子は、近衛の秘書の細川護貞と結婚しており、その二人の間に生まれたのが後に第79代首相となる細川護熙です。

政治の世界へ

さて、近衛文麿が政治と関わるようになったのは、京都大学在学中に世襲議員として貴族院の議員になってからでした。また、大学卒業後は内務省に在籍し、貴族院では立憲政友会の仲間と「憲法研究会」を設立して改革に取り組んでいます。

そして1933(昭和8)年には42歳で貴族院議長に就任。彼の国民的人気が急速に高まっていったのはこの頃からで、次期首相候補の下馬評にも上るようになります。彼はいわゆる「聞き上手」で、周囲に多くの人材が集まり、国民的人気も抜群でした。

彼に期待が寄せられたのは、西園寺公望の後で旧公家からは有能な人材が出ていなかったという事情もあったようです。

それでも、まだ40代前半という若さで首相になること普通は考えられません。しかし1936年、二・二六事件で当時の岡田啓介内閣が総辞職すると、元老である西園寺公望は近衛に首相をやるよう大命を下します。

ただ近衛はこの時、健康を理由に固辞。さらに翌年の1937年、軍人上がりの首相たちが次々に就任と退陣を繰り返した果てに、近衛は再度後継首班として指名を受けます。これを受けて第一次近衛文麿内閣が誕生。この時、彼は弱冠45歳でした。

2ページ目 満州事変勃発

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