勝家 権六 修理亮
織田右府につかへ、しばしば戦功あり。右府佐々木承禎及び浅井朝倉を伐て近江越前をたいらぐるのとき、勝家これに従ひ軍忠を励すにより、北国のをきてとして越前を領し、北庄の城に住す。右府生害の後近江国柳瀬にをいて相戦ひ、終に敗走す。太閤すすみて北庄の城をかこむ。四月二十一日勝家自殺す。室は織田備後守信秀が女。
※『寛政重脩諸家譜』巻第三百七十二 清和源氏 支流 柴田
織田信長(おだ のぶなが。右府)の重臣として数々の武勲を重ね、北陸攻略の任務を帯びていた柴田勝家(しばた かついえ)。
やがて天正10年(1582年)に信長が志半ばに横死を遂げると、織田政権の乗っ取りを企む羽柴秀吉(はしば ひでよし)と対立しました。
翌天正11年(1583年)に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで敗れた勝家は、追い詰められて4月21日に北庄城で自害してしまいます。
この時、正室であったお市(信長の妹)も運命を共にしたのでした。
……ところでそんな柴田勝家には、どんな子供がいたのでしょうか。
『寛政重脩諸家譜』によると、勝家には男児3人と女児1人がいたと言います。しかし全員養子であったため、勝家の血は引いていませんでした。
今回は勝家の子供たちについて紹介。果たしてそれぞれどんな人物だったのでしょうか。
勝家の長男・柴田勝敏(かつとし)
生没年不詳
通称は父と同じ権六(ごんろく)を襲名しているので、恐らく家督を継がせるつもりだったのでしょう。
幼名は於国丸(おくにまる)、実家は不明(某氏)となっています。将来を嘱望されたでしょうが、16歳の時に京都で自害してしまいました。
時期や動機など詳細は不明ですが、父の滅亡に関連していたと考えられます(別説では、賤ヶ岳の戦いで羽柴方に捕らわれ、京都で処刑されたとも)。
勝家の次男・柴田勝政(かつまさ)
弘治3年(1557年)生〜天正11年(1583年)没
通称は三左衛門(さんざゑもん)、元は佐久間盛次(さくま もりつぐ)の三男です。盛次は勝家の義兄(姉婿)であるため、勝政は甥に当たります。
正室として日根野高吉(ひねの たかよし。織部正)の娘を迎えますが、賤ヶ岳の戦いで討死してしまいました。享年27歳。