江戸時代、吉原の三景物といわれるものに『三月の仲之町桜・七月の燈篭・八月の俄』というものがありました。この吉原の風物詩に、人々が集まり賑わったのです。
この三景物の中の“七月の燈篭”には、ある一人の太夫が関係しています。
その名を“玉菊(たまぎく)”といいました。
いったい“玉菊”とはどんな遊女でどういう関係があるのか、ご紹介していきます。
太夫・玉菊とは
玉菊とは角町中万字屋勘兵衛お抱えで、茶の湯、生け花、俳諧、琴曲などあらゆる芸に長けた才色兼備の遊女で、太夫にまでのぼりつめ全盛を極めました。
玉菊はまた“河東節”の三味線の名手であり、“拳”の妙手でした。
“河東節”とは浄瑠璃の一種であり、主に吉原との関係が深くお座敷芸として好まれました。三味線は細棹で、語り口は豪気でさっぱりとした粋なものだと言われています。
“拳”とはお座敷遊びの一つ“拳相撲”という今の“じゃんけん”の元と言われる遊びで、上掲の浮世絵で玉菊が手に持っているのが、黒いビロードの布で拳のまわしを作り、金糸で紋を縫わせて“拳”相撲に使ったとされています。
玉菊はその人柄も気前がよく、人々から大変敬愛された人物でした。
5代目奈良屋茂左衛門をパトロンにもち、そのぜいたくな暮らしぶりは数多くの伝説を生みましたが、大酒がたたり享保11年の3月に25歳という若さで亡くなりました。