結ばれた血縁関係
【前編】では、細川家――特に細川藤孝――と明智光秀の関係について説明しました。
操られた明智光秀!?「本能寺の変」の窮地を切り抜けた細川家との関係【前編】
【後編】では、そんな細川家が本能寺の変の際はどのような状況に陥ったのか、そしてどう窮地を脱出したのかを見ていきましょう。
信長の元に送り込まれた光秀は、見事にその役割を果たします。信長による京都への出兵と、足利義昭の政権樹立が果たされ、光秀を送り込んだ細川藤孝も領地を回復しました。
その後、光秀は信長と将軍の間で連絡係となります。さらに丹羽長秀や当時の木下藤吉郎とともに近畿地方の行政も任されるなど、着実に出世していきました。
さてそれで、光秀はあるとき、細川家で反りが合わなかった家老の松井佐渡に「あなたに気に入られなかったおかげで信長のもとで出席できた。恩を返したい」と言い、それで松井は即座に「ではガラシャを寄越してほしい」と応えます。
ガラシャは細川家に迎え入れられましたが、こうして結ばれた光秀との血縁が仇となり、本能寺の変で細川家はピンチに陥ります。
本能寺の変を受けての立ち回り
本能寺の変の報せは、飛脚によってもたらされたといいます。さらに光秀の使者もやってきて、信長があまりにわがままなので討ち滅ぼしたこと、現在は摂津国に領主がいないのでそこを領有してほしいことなどを伝言します。
光秀は、きっと藤孝なら自分の味方になってくれると考えたのでしょう。しかしそう簡単にはいかず、細川家では藤孝・忠興父子と三人の重臣によって協議が行われました。
いくつかの選択肢がありましたが、最終的には藤孝・忠興父子が剃髪して信長の死を悼み、中立の立場を保つことに決まりました。そして、その後状況を見て光秀討伐に加わることにしたのです。
光秀は、細川家のこの決定にかなり動揺したようです。しかし歴史の流れを見れば細川家の判断が正しかったのは明白でした。