たった2年で将軍職を譲った家康
徳川家康について素直にすごいと感じるのが、彼はただ単に天下人になりたいという野望・欲望だけで突き進んでいたのではなかったと思われる点です。
特に関ヶ原の戦いで勝利してからの彼の行動を見ていると、将来的な平和維持を最優先にして立ち回っていることが分かります。
それがよく表れているのが、わずか2年で息子の秀忠に将軍職を譲ったことです。
家康は1603年に朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開きましたが、たった2年後の1605年には朝廷に働きかけて秀忠に将軍職を継がせているのです。
この時の家康は60歳だったので、確かに引退してもおかしくはない年齢でした。しかし彼の本当の狙いは、徳川が将軍の世襲をきっちり行っているという事実を、世間へ知らしめることだったのです。
この点について、もう少し詳しく説明しましょう。
駿府城からの「にらみ」
家康が征夷大将軍に任じられた当時は、権力的にはかなり弱体化したとはいえ、まだ大坂に豊臣秀頼がいました。故人となった豊臣秀吉が関白に就任していたことによって、この頃まだ豊臣氏は摂関家と同レベルの扱いを受けていたのです。
さらにいえば、秀頼は徳川秀忠よりも地位が高く、世間では秀頼が次期関白であるという噂も流れていたといいます。そこで家康は、自分の息子に将軍職を継がせて、世は徳川の天下であることをしっかり見せつけたのです。
家康は将軍職を退いたものの、その後も大御所(前将軍のこと)と呼ばれながら政治を主導していきます。彼が拠点としたのは駿河の駿府城ですが、これは大坂に豊臣氏がいることを踏まえてのことでした。駿河は江戸よりも大坂に近いので、にらみを利かせる意図もあったのでしょう。
ちなみに、家康が死ぬまで政治を行った駿府城は、安土城や大坂城と比べて知名度が低く地味な印象です。また天守も焼失してしまったので、どのような建物だったのかは推測するしかありません。
しかし最近の発掘調査によって、駿府城の天守を載せた天守台は日本一のサイズで、江戸城よりも巨大な城だったのではないかとされています。