- 今川家の弱体化により永禄11年(1568)より始まった駿河侵攻。
大河ドラマ「どうする家康」で阿部寛さんが演じるローマ人こと武田信玄の侵攻速度は凄まじく、駿府を数日で落とす破竹の勢いを見せました。しかし、この駿河侵攻ですが、実は武田家家中には反対する人物がいました。
その人物は武田義信。信玄の嫡男でした。
今回は、駿河侵攻を反対したことにより信玄への謀反騒動にまで発展した義信の生涯を紹介します。
今川義元の娘を正室に
義信は天文7年(1538)に生まれました。母は正室の三条の方で、信玄との婚姻には今川義元の斡旋があったと言われています。
13歳で元服し、義元の娘である嶺松院(れいしょういん)を正室に迎えました。実は嶺松院の母は信玄の姉の定恵院。このことから、今川と武田は強固な同盟関係を築いていたことがわかります。
また、天文22年(1553)には足利将軍家の通字である「義」を足利義輝から貰いました。これは今までの武田家の中で初めてのことで、この時より義信と名乗りました。
武勇誉れ高い活躍を見せる
足利将軍家から認められた義信の初陣は、天文23年(1554)の信濃国(現在の長野県)佐久郡の知久氏攻めです。義信は知久氏を攻めた後、小諸城も攻略。この時に軍勢を率いて落ち武者を300人討ち取る活躍を見せました。
そして、永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いでは、志田義時と大川高重を討ち取る功績を残します。
この戦いで義信は手傷を負いながら戦うも、信玄は上杉謙信の攻勢により、義信を残して後退したことで親子関係にほころびが見え始めました。