大河ドラマではどう描かれる?徳川家康の最期を『葉隠』はこう伝えた【どうする家康】

元和2年(1616年)4月17日、徳川家康は75歳で世を去りました。

人質の身分から永年の苦節を乗り越え、遂には江戸に幕府を開き天下人へと上り詰めた波乱万丈の生涯は、今も多くの人々から畏敬されています。

よくその死因について「鯛の天ぷらを食べ過ぎた」と言われますが、実際に亡くなったのは天ぷらでお腹を壊してから数か月後ですから、ちょっと考えにくいでしょう(実際にはガンなど諸説あり)。

さて、病床に伏せった家康がいよいよ身罷ろうとしていたその時。彼は何をしたのでしょうか。

御陣刀にて罪人御切らせ、血附き候儘にて……

九九 権現様御神號は、御存生の内の御願ひにて候。於遺言に任せ、御陰骸甲冑御帯し御棺に入らせられ、久野山に御納め、後に日光山御移り遊ばされ候。又御病中四月十三日に、御陣刀にて罪人御切らせ、血附き候儘にて久野御宮御神體になされ候。「東国は皆手に入り、死後にも別條あるまじく候。西国心元なく、切先を西国の方へ向け込み置き候様に」仰せ付けられ候由。

※『葉隠聞書』第十巻

「……我が亡骸には甲冑を着せよ」

家康は死後も徳川家の天下を鎮護せんと、そう遺言しました。更には4月13日に愛用の陣刀をもって罪人を斬らせ、その血を拭わぬまま遺体と共に祀るよう命じました。

「わしは天下を平らげ、もはや東国に不安はないが、西国はいまだ心もとない」

そこで血に濡れた刀の鋩(きっさき。穂先)を西の方角へ向けるよう指示。刀を手に持つよう配置すれば、家康の足も自然と西国へ向くことになります。

もし西国で何かあれば、化けて出て叛徒らをことごとく斬り捨て、踏みにじらんとする執念を感じずにはいられません。

一二〇 権現様御臨終の時分、半弓を御取りなされ、御平臥ながら矢を御つがひ、天井をはつしと御射通し、そのまゝ御息絶え候由。天下取に御なり候事は、末期の一箭にありと申し傳へ候由。

※『葉隠聞書』第十巻

「……弓を持て」

いよいよ息も引き取らんという危篤状態に、家康は一体何を言い出すのでしょうか。ともあれ弓矢を用意すると、家康は自ら弓に矢をつがえました。

もはや起き上がることも出来ない中、残された力を振り絞って矢を射放つと、みごと天井を射抜いたそうです。

「……御臨終にございます」

最期の時まで弓矢を手放さず、天井を射抜いた家康の態度は「さすが武門の棟梁、天下を獲られるに相応しい御方であった」と称えられたのでした。

3ページ目 一方の『徳川実紀』では膝枕の最期

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