虚々実々!若き日の徳川家康が臨んだ「三方ヶ原の戦い」にまつわる逸話の真相は?【前編】

有名だけど作り話が多い

徳川家康の生涯を追っていく上で外せないのが、1572年に起きた三方ヶ原の戦いです。かの武田信玄と、「鳴くまで待とう」のイメージとは違う血気盛んな青年時代の家康が激突したというものです。

しかしこの戦、有名なだけに、後世に作られた嘘のエピソードがまことしやかに現在まで伝わっている部分も多くあります。そのエピソードは、まともな研究者なら取り上げないものがほとんどです。

ここではそうした作り話と本当の話、また実際には史料に乏しく不明である点などを探っていきましょう。

織田信長足利義昭を室町幕府の15代将軍に立てたことで、信長はその権力を日増しに強くしていきました。すると当然、これに反発する者も多く出てきますし、信長と義昭の関係すらも次第に悪化していきます。

武田信玄と徳川家康が激突したのは、そんな1572年10月のことでした。信玄が、家康の修める三河・遠江へと侵攻し始めたのです。

まずこの時点での信玄の挙兵についてですが、これまでの通説では、彼は足利義昭の求めに応じて挙兵したとされてきました。

しかし実際には、当時はまだ信長と義昭ははっきりした形では対立していません(関係が冷え切ってはいたようですが)。信玄はあくまでも独自の判断で、織田信長を天下人にすべきではないと考えて、信長の同盟者である徳川の領地を攻めたという説もあります。

3ページ目 信玄を追う家康

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