「下剋上」「戦国時代」もここから始まった!?乱世の発端になった明応の政変とは何か【後編】

クーデター勃発!

【前編】では、細川政元がクーデター・明応の政変を起こすまでの経緯を説明しました。

「下剋上」「戦国時代」もここから始まった!?乱世の発端になった「明応の政変」とは何か【前編】

明応の政変というクーデターこれまでは、戦国時代は応仁の乱が発端で始まったと教科書で教えられてきましたが、最近は歴史研究が進んだことで、応仁の乱よりも先に起きた享徳の乱や永享の乱など、他の地点に乱世…

【後編】では、この行為がどんな混乱と結末をもたらしたのかを解説します。

足利義澄を将軍に据えるべく挙兵した細川政元。彼は朝廷に対しても義材の横暴ぶりをチクッて、彼を将軍職から退かせることを要請しました。そして次の将軍は義澄にすることを報告します。

彼の動向に動揺したのは、河内へ出兵中だった武士たちでした。彼らの多くは引き返して、新将軍に就任した義澄と政元に就きます。

この勢いに乗った政元は、宿敵である畠山政長を討つべく河内へ兵を向けました。

もちろん、足利義材と畠山政長も黙っていません。彼らは現・大阪市平野区にある正覚寺へ陣を置いて抵抗を続け、紀州からは根来衆を中心とした大軍が援護に駆けつけるなどして進軍していきました。

しかしこの進軍を、赤松正則が堺で食い止めます。激しい戦闘になりましたが赤松は紀州勢を撃破し、ここから細川氏は一気に正覚寺を攻めて落としたのでした。

このため畠山政長は自害し、義材は投降後に龍安寺で幽閉されることになります(後に越中へ脱出)。

3ページ目 細川家の専制政治の始まり

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