かつて日本に奴隷制度が存在したことは、ご存じでしょうか。
黒人が奴隷として世界各地で働かされていたほか、日本やアジアなど一部の国では「奴婢」とよばれる人たちが奴隷のような扱いを受けていました。
今回は、日本史に残る奴隷制度「奴婢」について掘り下げて紹介します。
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奴婢の起源と身分制度
奴婢は邪馬台国の頃から存在しており、中国の歴史書・魏志倭人伝によると、邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなった際に100人以上の奴婢をいっしょに葬ったと記されています。
そのほか、昔の中国にあたる隋や唐でも莫大な奴婢が重要な労働力として重宝されていました。ちなみに、秦で王に次ぐ権力を保持したとされる呂不韋は、1万以上の奴婢を所有していたといわれています。
その後、日本では701年に制定された大宝律令と同時に、隋や唐などの国を手本にした奴隷制度の見直しがおこなわれました。
大宝律令と分類された国民
701年に制定された大宝律令では、親の身分の良し悪しで子供の身分を決める「良賎の法」を引き継いで、日本の国民を「良民」と「賎民(身分の低い者)」の二つに分ける制度が誕生。
良民に制定されたのは全日本国民のうち10分の1程度の豪族や貴族などで、残りは賎民として扱われています。
賎民の中には、さらに5つの階級「五色の賤」があり、身分が高い順に「陵戸」、「官戸」、「家人」、「公奴婢」、「私奴婢」とよばれました。
陵戸や官戸、家人は奴婢のように奴隷として働くことはなく、国から支給された農地「口分田」を耕すこと、家族を持つことも許されています。人身売買も禁止され、納税の義務もなかったため、「公奴婢」や「私奴婢」とは比較できないほどの高待遇でした。
また、「良民同士の子供は良民」ですが、「良民と賎民の子は賎民」として扱われるなど、賎民の血縁が良民になることがないように区別されていたのです。