「山形藩」のはじまり
現在の山形県で起きた「最上騒動」について探ります。戦国武将として名を馳せた最上義光(もがみ・よしあき)とその一族によるトラブルで、幕府が仲裁に入ったにも関わらず終息せず、結局お取り潰しになってしまったという話です。
細かく見ていくと、最上騒動は一つの事件ではなく、山形藩で起こった長年の情勢のことを指します。
もともと、山形藩の初代藩主である義光の時代から、最上氏は内部抗争が絶えない一族でした。
義光がまとめていた間は伊達氏などと互角に戦える力を持っていましたが、彼の死後、一族はだんだん力を弱めていきます。
最上一族はかつては豊臣秀吉の配下でしたが、豊臣秀次が切腹させられた「秀次事件」がきっかけで、次第に徳川家康の方に傾倒していきました。最上義光の娘である駒姫は秀次の側室だったのですが、側室として上洛して間もなく、秀次事件に巻き込まれて処刑されたのです。
駒姫は東国一の美女と言われるほどの美人だったといます。関ヶ原の戦いでは、義光は上杉方の直江兼続を討ち取って57万石の領地を与えられました。
これが山形藩の始まりだったのですが、義光の後継者問題でさっそく暗雲が立ち込めます。