古来「昔取った杵柄」とはよく言ったもので、しばらく離れて忘れたようでも、意外に身体は覚えているもの。
今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、鎌倉殿の無茶ぶり(期待)に見事応えることのできた三浦家村(みうら いえむら)のエピソードを紹介。
果たして家村は、鎌倉殿から何をリクエストされたのでしょうか。
流鏑馬神事で欠員発生!代理に指名された家村
時は寛元4年(1246年)8月16日、この日は鶴岡八幡宮寺で放生会(※)の流鏑馬が行われました。
(※)ほうじょうえ。生き物を解き放つことで功徳を積む儀式。ただし解き放つためにわざわざ生き物を集める点について、努々ツッコんではなりません。
当日は16騎が出場を予定したところ、選手の一人が急に霍乱(かくらん。急性腸炎や熱中症など諸説あり)の気を起こしてしまいます。
さて困りました。ハレの神事に病穢の欠員が生じては、八幡大菩薩も興醒めでしょう。そこで代役として家村に白羽の矢が立ったのでした。
しかし、今日の今日ではあまりにも無茶ぶりというもの。指名を受けた家村は辞退します。
「かつて父(三浦義村)の生前に一度二度ほど務めたことはありますが、もう随分と稽古しておりません。ましてこんな年を食った者にいきなり指名されても、それがしには荷が勝ってしまいます」
と言っても30代後半(推定)ですが、鎌倉時代の感覚では十分過ぎるほどのオッサンです。家村の言い分はもっともながら、鎌倉殿のご指名とあれば謹んで最善を尽くすべきと兄・三浦泰村(やすむら)に諭されます。
「しかし、馬がございませぬ」
「そんな事もあろうかと、馬ならちゃんと用意してある」
泰村は特別に深山路(みやまじ)という駿馬を用意。ここまでされては仕方なく、家村は騎手を引き受けたのでした。