NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を観ていた方より、こんな質問をいただきました。
「小栗旬君が演(や)ってる義時の苗字は江間(えま)なの?北条(ほうじょう)義時じゃないの?」
第27回放送「鎌倉殿と十三人」で、源頼家(演:金子大地)に訴訟案件を取り次ぐ十三名(いわゆる鎌倉殿の13人)を紹介する時、義時は「江間」の苗字を名乗っています。
北条時政(演:坂東彌十郎)の息子なのに、どうして「江間」なの?よく知られる北条義時と名乗っていたのはいつの時期なの?
今回はそのあたりの経緯についてまとめてみたいと思います。
最初は北条家の跡継ぎ候補じゃなかった?義時
北条義時は平安時代末期の長寛元年(1163年)、伊豆国の豪族・北条時政の次男として誕生しました。
通称は小四郎(こしろう)、兄・北条宗時(演:片岡愛之助)の通称が三郎なので四郎としたいところですが、父・時政の通称が四郎なので小をつけたのでしょう。
※ただし『吾妻鏡』では四郎(文脈から時政ではなく、義時を指していると断定可能)と書かれていることも。
元服して北条小四郎義時と改名(時期および幼名は不詳)、やがて北条の土地に隣接する江間郷に所領を与えられて分家を立て、江間小四郎義時と名乗ります。
『吾妻鏡』では治承5年(1181年)4月7日に「江間四郎」として言及されているため、恐らく源頼朝(演:大泉洋)が挙兵した直後の武功によって時政が与えられた所領を分けてもらったのでしょう。
あるいは(寝所の警固を任されるほど)頼朝のお気に入りだった義時が、直々に江間の所領を賜わって父から独立したとも考えられます。
なお兄の宗時は挙兵から間もない石橋山の合戦(治承4・1180年8月23~24日)で敗死しており、時政は北条の家督を義時ではなく、安元元年(1175年)に生まれた弟の五郎(後に北条時連⇒時房。演:瀬戸康史)に継がせるつもりだったようです。
しかし時が流れて文治5年(1189年)になると、時政の後妻である牧の方(劇中では“りく”演:宮沢りえ)が待望の男児、後の北条政範(まさのり)を出産。
若い後妻を寵愛する時政は、五郎からこっちを嫡男(正室の男児。ここでは後継者候補)と定め、将来に望みを託すのでした。
その証拠に10代の若さで従五位下(じゅごいのげ)という高い位階に推挙されています。父である時政が還暦過ぎてようやく従五位下にたどり着いたことと比較すると、その凄さが判ります。
このまま順調に行けば政範が北条の家督を継ぎ、義時は江間の分家として仕えたことでしょうが、元久元年(1204年)11月5日、政範は上洛中に急死してしまいました。
また時政が牧の方と共謀して源実朝(演:柿澤勇人)の粛清を企んだことで事態は急変。元久2年(1205年)閏7月、時政夫婦は鎌倉を追放されてしまいます(牧氏事件・牧氏の変)。
かくして空位となった北条の家督と執権の座。ここで当初の予定通り五郎が継げばいいかと言っても、流石に荷が勝っています。
そこで義時にカムバックの声がかかり、晴れて北条の跡取りと鎌倉幕府の執権を継承することとなったのでした。