2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、源頼朝が行った巻狩(まきがり)が描かれたエピソードに、曽我兄弟の仇討ちも盛り込まれていました。父親の仇(あだ)を討ったことで有名なこの事件。
この曽我兄弟の仇討ち、赤穂浪士による討ち入りと並んで「日本三大仇討ち」と呼ばれた事件が、伊賀越(いがごえ)の仇討ちでした。
いったい、何がきっかけでこの仇討ちは起きたのでしょうか?そして、どんな結末が待っていたのでしょうか?
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伊賀越の仇討ちとは?
伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)とも呼ばれますが、この記事では伊賀越の仇討ち、という表記で統一します)は、江戸時代の寛永11年(1634年)に伊賀野国上野の鍵屋の辻(現在の三重県伊賀市小田町)が舞台です。
岡山藩士の渡辺数馬(わたなべかずま)と彼の義理の兄・荒木又右衛門(あらきまたえもん)が数馬の弟である源太夫の仇討ちをします。相手は、同じく岡山藩士の河合又五郎でした。
数馬の弟の死の理由は?
渡辺数馬の弟で小姓だった渡辺源太夫は、岡山藩主である池田忠雄から寵愛されていましたが、藩士の河合又五郎に関係を迫られ、それを拒絶します。断られたことに逆上した又五郎は源太夫を殺害してしまいました。
源太夫の死を悼んだ池田忠雄の命を受けて、数馬と荒木又右衛門は又五郎を討ちました。