歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【後編】

敗戦責任・援助資金の横領?

【前編】では、長坂光堅という人の経歴や実績について説明しました。そんな彼の、現代に語り継がれる「悪評」とその真偽について見ていきましょう。

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歴史書で捏造された冤罪。武田家の重臣・長坂光堅は本当に極悪人だったのか?【前編】

歴史書の「ストーリー」昔の歴史の記録書は、正確さに欠けるどころか、いかにウソを書くかに重きを置いていたと言っても過言ではありません。ウソと言っては語弊があるので、誰が正義で誰が悪なのかというストー…

まずは天正3年(1575年)の長篠の戦いについての悪評です。ご存じ、織田・徳川の連合軍と武田の軍勢による歴史的な戦闘ですが、武田氏の戦略・戦術を記した軍学書『甲陽軍鑑』によると、この時の武田方の惨敗の原因を作ったのが光堅だというのです。

それによると、彼は、武田方の宿老たちが「撤退」を進言したのに、逆に攻撃するように進言したそうです。

しかしこれについては、光堅にはアリバイがあります。長篠の戦いの前日に、勝頼が光堅宛てに書状を送っているのですが、それによると彼は当時武田領内のどこかの城を守備していたと考えられるのです。

長篠の戦場にいない以上、勝頼に進言するのは難しいでしょう。よって「光堅が敗因を作った」というのは冤罪だと考えられます。

ちなみに長篠の戦いでは、光堅の三男も戦死しています。

また、金銭面での悪評もあります。

天正6年(1578年)に上杉謙信が急死したことを受け、上杉家の家督を巡って上杉景勝と上杉景虎が御館の乱を起こします。

その際、景勝と武田勝頼が甲越同盟を結び、勝頼は資金援助を受けているのですが、『甲陽軍艦』によると光堅は、景勝の家臣を通じてその金を一部横領したというのです。

2ページ目 甘言を用い、主君を見捨てた?

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