みなさんは、岸田吟香(きしだぎんこう)という人物の名前を聞いたことがありますか?恐らく、多くの人が知らないのではないでしょうか。
しかし、岸田吟香は日本人が大好きな「あるもの」を広めた人物でもあり、その他にもたくさんの業績を残したんです。
そこで、今回の記事では、そんな彼について詳しくご紹介したいと思います!
岸田吟香とは?
岸田吟香(きしだぎんこう)は、江戸時代から明治時代に活躍した新聞記者であり実業家でもあります。1833年に生まれ、1905年に亡くなりました。
大百姓の家に生まれた彼は、19歳で江戸に行き、漢学を学びました。ます。以下にご紹介するような様々な業績を残しました。
岸田吟香と目薬
眼病を患った吟香は、横浜でアメリカ人の医師ヘボン(ローマ字のヘボン式で知られる人物です)の治療を受けたことをきっかけに、ヘボンの作成した辞書『和英語林集成』の編纂に協力します。
そして、その助けに感謝したヘボンから、洋式目薬である「精錡水」の製造を教えてもらいます。明治期には、その目薬を新聞広告を使って広めました。
ジャーナリストとしての岸田吟香
幕末には、日本初の民間新聞「海外新聞」の発行に協力します。「横浜新報もしほ草」という新聞をアメリカ人のヴァン・リードと一緒に創刊します。1873年には、「東京日日新聞」に主筆として入り、翌年の台湾出兵の際には、日本初の従軍記者として働きました。