2つの「同一人物説」もあるほど。人生も作品も謎だらけの天才歌人・柿本人麻呂の足跡

歌人・柿本人麻呂

「令和」という年号は万葉集から採られたということで、話題になりましたね。

ところでその万葉集の中に、柿本人麻呂という人の歌が載っています。この人の名前は、少し日本史を勉強した人なら聞いたことがあるでしょう。

それくらい有名で、万葉集を代表する詩人とされていますが、なぜかこの人の経歴や人物像はほとんど分かっていません。

今回はそんな、柿本人麻呂にまつわる謎を説明していきます。まず最初の謎は、「公文書に名前が出てこない」ことです。

人麻呂は、当時の都が飛鳥や藤原京にあった頃、王権をたたえる賛歌や死者を追悼する挽歌を詠んでいます。次期天皇とされていた草壁皇子が若くして亡くなった際には挽歌を詠んだりもしており、彼が宮廷に仕えていたのは間違いないようです。

しかし、『日本書紀』『続日本書紀』などの史書には名前が一切出てきません。『万葉集』には歌人として彼の名前があれほどたくさん出てくるのに、です。

その理由については、さまざまな説があります。その中で有力なのが「人麻呂の官位は低かった」からではないか、というものです。

実際、彼の一族らしい人の名前は史書にちらちらと出てくるのですが、どれも大した官位ではありませんでした。

それを裏付ける証左のひとつとして、『万葉集』の中の人麻呂の死を詠った歌の中で、「死」という言葉が使われていることが挙げられます。

当時、高位の人物が亡くなった際に「死」という言葉は使わない習わしでした。だから人麻呂はそれほどの高位ではなかったのでしょう。

彼の才能は、仕事よりも歌の方面で発揮されたのです。

2ページ目 2つの「同一人物説」

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