奥州藤原氏と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった金売吉次
源平合戦において、随一の英雄とされるのが源義経です。
義経は河内源氏の棟梁・源義朝の遺児でした。幼くして父が平家との戦いで敗死し、母・常盤御前も捕らえられて平清盛の愛妾となっています。
牛若丸(義経の幼名)は、幼くして仏門に入れられて母や兄・今若丸(阿野全成)や乙若丸(義円)らと離れて暮らすこととなります。牛若丸は鞍馬寺で出家して遮那王と名乗り、長じて武芸の達人となりました。
やがて全てを知った遮那王は平家への復讐を誓って京都を脱出。父・義朝が落命した尾張国で自ら元服して源九郎義経と名乗ります。京を去った義経は奥州(東北地方)に身を寄せました。当時の東北地方では、奥州藤原氏が独自の政権を築いていました。奥州藤原氏当主・藤原秀衡は義経を平家から匿って養育します。
義経の奥州下向と秀衡の庇護が、のちの源平合戦の帰趨を決することとなるのです。このとき二人を繋いだのが、金売吉次(かねうりきちじ)と呼ばれる商人でした。金売吉次は軍記物語(『平治物語』『平家物語』『義経記』『源平盛衰記』)に登場する伝説がかった人物です。金商人として奥州産の砂金を京で商い、奥州藤原氏との関わりも持っていたと推察されます。
当時の奥州は金と馬の名産地として知られていました。日宋貿易において金は重要な輸出品だったため、奥州は朝廷や平家からも注目されていたようです。奥州はのちにマルコポーロの『東方見聞録』において日本が「黄金の国・ジパング」と紹介される源流となったようです。
吉次は、軍記物語によると京の三条(あるいは五条)に居を構えた金商人だったと伝わります。当時の金の需要から、相当な長者(金持ち)だったようです。義経と吉次は京で出会い、交流を持ったと考えられています。
当時の義経は、仏門にあって俗世間からは切り離された身の上でした。平治の乱後、源氏の関係者には厳しい処罰が降っています。源頼朝などは伊豆国に流罪。以降20年を同地で罪人として過ごすこととなりました。
まだ幼かった義経や同母兄の阿野全成や義円も、源氏の棟梁の係累として処罰の対象となっていました。いずれも仏門に入ることで助命されていたようです。
吉次は義経の決意を知ると奥州行きを勧め、同地へ誘うことを決めました。