主君を盛大な罠にはめ自害にまで追い込んだ裏切者「朝倉景鏡」…そして朝倉家は滅亡へ

朝倉家を滅ぼした「裏切者」

朝倉景鏡(あさくら・かげあきら)という人についてご紹介します。この人は主君である朝倉義景(あさくら・よしかげ)を裏切って、自害にまで追い込んだ「悪役」として日本史上名を馳せています。

優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【前編】

戦国期。平安時代末期から続く名門一族「越前朝倉氏」は、織田信長率いる織田軍によって本拠地を蹂躙され滅亡した。朝倉氏滅亡時の当主「朝倉義景(よしかげ)」には様々な言い伝えが存在するが実際はどのような人物…

朝倉家の一門衆であり、筆頭の立場であるにも関わらず家を滅亡へと導いたという経歴のためか、決して高く評価されている人物ではありませんが、今回はその生い立ちなどをたどってみましょう。

もともと、景鏡は越前の大名である義景の従弟でした。そして越前の大野郡司も務めています。

加賀一向一揆が起きた際は、征伐のために総大将として陣頭指揮を執っています。そして、1570(元亀元)年には越前へ侵攻してきた織田・徳川の連合軍と戦っていますが、この時も総大将の任にあたりました。金ヶ崎の戦いです。

しかしこの時、金ヶ崎城が落ちてしまったことで景鏡は劣勢に追い込まれます。ここで浅井長政が信長を裏切ったことで形勢逆転となるのですが、この時に景鏡は信長を討ち取るチャンスを逃してしまいました。

信長との戦い

その後も、浅井・朝倉の連合軍は織田・徳川と戦い続けますが、1570(元亀元)年6月に姉川の戦いで敗北。さらに同年9月の志賀の陣で比叡山延暦寺を味方につけて戦い続けます。

この時も景鏡は総大将を務めていることから、相当優秀な武将だったことが分かりますね。

実際、彼は織田信治(信長の弟)や森可成、それに坂井政尚を討ち取るなどの功績を残しています。

ここで足利義昭と朝廷が間に入って講和したことと、大雪の影響で朝倉軍が越前へ退去したことがあいまって、結果は引き分けとなりました。

とはいえまだ戦いは続きます。1572(天正元)年、信長が浅井長政の拠点である小谷城の近くに虎御前山城を築き、長政を攻め始めました。

この時、景鏡は援軍として小谷城へ向かいますが、すで大勢は不利と見込まれていたのか、朝倉家の家臣の多くが織田へと寝返りました。

こうした情勢の中で、景鏡も裏切りを決めたのでしょう。もともと主君の義景との関係も微妙になっていたようです。

3ページ目 景鏡の計略による朝倉家の滅亡

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