みなさんは、江戸時代に起きた「宝暦事件」という出来事を聞いたことがありますか?あまりなじみがないかもしれませんが、歴史上大きな意味を持っているのです。
というのも、この事件は、尊王攘夷派が弾圧された日本史上初めての事件だったからです。
そこで、この記事では、そんな宝暦事件について詳しくご紹介したいと思います。
宝暦事件が起きた背景
宝暦事件では、竹内式部(たけのうちしきぶ)という人物と少壮公卿(しょうそうくぎょう)らが処罰されたのですが、竹内式部が学んでいた神道が垂加神道(すいかしんとう)というもの。
垂加神道は1671年に山崎闇斎(やまざきあんさい)という人物によって説かれたもの。神道と朱子学に陰陽道や気学などを融合した神道です。
この神道の中心となる考え方が、今回問題となった「過激な尊王論」でした。ちなみに、垂加神道はのちの水戸学にも影響を与えました。そして、この垂加神道を学んだ竹内式部は、尊王攘夷派の論者となっていきます。
家塾で『日本書紀』『保建(ほうけん)大記』『靖献遺言(せいけんいげん)』などを抗議し、朝廷の政権回復を唱え、将軍を誹謗しました。不満が高まっていた若い公家たちは、竹内の講義に感銘を受けたといいます。
宝暦事件の内容・いったい何が起きたのか?
宝暦事件は、宝暦8年(1758年)に起きます。このときの将軍は9代将軍、徳川家重。上記のとおり竹内が説く尊王論が朝廷内に広がっていることを危惧した人物がいました。
それは、一条家の一条道香(みちか)。朝廷と幕府の関係悪化を恐れた彼は、京都所司代(京とにおける江戸幕府の出先機関)に竹内らのことを報告します。
そして、江戸幕府は竹内を京都から追放し、彼に学んだ公家8人も謹慎処分にしました。
ちなみに追放された竹内は、伊勢国宇治山田へ退去します。