三つの三角形がそれぞれの点でつながり合ったデザインの「三つ鱗(みつうろこ)」と言えば、北条(ほうじょう)氏の家紋として有名ですね。
(見る人によっては「大きな三角形の中に逆立ちした三角形が入っている」ようにも見え、どっちに見えるかで自分の心理状態がわかるとか何とか)
北条氏の影響が色濃く残っている鎌倉の神社仏閣、史跡など多くの場所で見られるので、鎌倉へおいでの際は探してみると楽しいでしょう。
ところで、北条氏はいつから三つ鱗の家紋を用いるようになったのでしょうか。今回はその由来、鎌倉幕府の初代執権として活躍した北条時政(ほうじょう ときまさ)のエピソードを紹介したいと思います。
時政の前に、弁財天が降臨!
時は平安末期の建久元年(1190年)、信心深い北条時政は子孫繁栄の願をかけるため、相模国江島の窟(いわや)に籠もりました。
江島(現:神奈川県藤沢市江ノ島)の信仰は古墳時代の欽明天皇13年(552年)、勅命によって宗像三女神(むなかたさんじょしん。スサノオノミコトの娘三柱)を祀ったことに始まります。
彼女たちは後に大陸から渡来した七福神の一人・弁財天(べんざいてん)と同一視されるようになり、治承6年(1182年、養和2年)には鎌倉殿の源頼朝(みなもとの よりとも)公が文覚(もんがく)上人に命じて弁財天を勧請。奥州藤原氏の調伏を行わせました。
さて、窟に籠もった時政が満願成就となる21日目の夜、美しい女官姿の弁財天が降臨します。
「そなたの願い、しかと聞き届けた……そなたが道に外れず政(まつりごと)を執るならば、一族は末永く栄えるであろうぞ」
「ははあ、ありがたき幸せ」
「しかし。道に外れて私欲を権(はか)るならば、その栄華は七代限りに潰(つい)えようぞ」
「……肝に銘じまする」
「我が申せしこと、努(ゆめ)忘るでないぞ……!」
そう言いわたすなり弁財天の姿はたちまち恐ろしい大蛇に変化(へんげ)。二十丈(約60メートル)にもなろう巨体をズルズルと海中へ躍らせ、夢のように消え去ったのでした。