殺人を懺悔するはずが…宣教師ザビエルによるキリスト教の布教を手助けした青年・ヤジロウとは?

湯本泰隆

1549(天文18)年、8月19日、イエズス会の創設メンバーに数えられるキリスト教司祭のフランシスコ・ザビエルが、薩摩(鹿児島県)に上陸して日本のキリスト教を伝えました。

薩摩国守護大名・島津貴久に謁見して布教を許されたザビエルは、長崎の平戸や山口へ赴いてキリスト教を伝道、山口では5ヶ月間で500人もの信者を得ることに成功したと伝えられています。

では、そもそもなぜ、ザビエルは日本にやって来たのでしょう。外国人だったザビエルは、日本語が理解できなかったはず。そのような彼がどうやって日本人にキリスト教を伝えていたのでしょうか。そこには日本人の協力者がありました。

懺悔を希望する一人の日本人青年・ヤジロウ

1541年、ザビエルはポルトガル国王からの要請を受け、リスボンを出航し、東インドへ向いました。彼の使命は、ポルトガルの植民地であったインドでの普及活動でした。翌年の5月にゴアに到着したザビエルは、インド洋沿岸、セイロン島、マラッカ島などを渡り歩いて伝道に尽力。ところが現地はイスラム教の影響が強く、ザビエルを迫害、キリスト教を受け入れようとはしませんでした。

1547年のある日、満足した成果を得られない状態で虚無感にひたっていたザビエルのもとに、懺悔を希望する一人の日本人青年が訪れました。

彼の名前は「ヤジロウ(アンジロー)」といい、かつて薩摩で商人として暮らしていましたが、仕事情のトラブルで仲間と喧嘩になり、その相手を殺してしまったことを告白。罪の意識に苛まれながらも極刑を恐れ、ポルトガル船に乗ってマラッカに逃亡していたさなかに、ザビエルのことを知り、罪を告白するためにやってきたのだそうです。

ヤジロウにザビエルのことを紹介したのは、ポルトガル船 船長のジョルジュ・アルヴァレス。1546年に薩摩半島最南部にやってきたアルヴァレスは、マラッカへ帰る際ヤジロウを乗船させたのでした。

ヤジロウの人柄と賢さに魅せられたザビエルは、翌年、神学を学ばせます。ヤジロウが話す日本の様子に次第に関心を持ったザビエルは、日本での布教を決意。ヤジロウを案内役としてゴアを出航し、薩摩上陸を果たしました。

3ページ目 様々な面でザビエルの伝道活動を支えるヤジロウ

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