お家騒動から圧制へ
真田信利(さなだ・のぶとし、1635~1688)という人物が、お家騒動をきっかけに好き放題をして自滅していったエピソードをご紹介します。
この真田信利という人物は、真田信之(さなだ・のぶゆき)の孫にあたります。信之は、少し前のNHK大河ドラマ『真田丸』の主人公である真田幸村/信繁(さなだゆきむら/さなだのぶしげ)の兄です。
信利の父親は信吉といいました。信吉は、信之の正室の子ではなかったため、真田本家のある松代藩ではなく、分領である沼田藩を治めていました。
さらに、この一族には信政という人物もいました。これは信之の次男で、つまり信利から見れば叔父にあたり、信利の父の信吉の兄弟にあたります。
1658年、この信政が亡くなったことでトラブルが起きました。彼は信之の嫡子でもあったので、松代藩は後継者を誰にするかについて信之の判断を仰ぎます。結果、信政の子である幸道が後継者として幕府に届けられました。
しかし、これに不服を申し立てたのが信利でした。「松代藩を継ぐべきなのは自分だ」と主張したのです。その理由は、まず幸道がまだ一歳と幼いこと、庶流とはいえ自分も信之につながる血筋であることでした。
信利は、正室の実家や幕府の大老も味方につけて、松代藩の後継になろうとします。
しかし幕府は、あくまでも信之の嫡子か庶子か(正室の子か側室の子か)を重視し、最終的に幸道への相続を認めます。
その一方で、幕府は沼田藩を独立した藩にすることで、信利を納得させようとします。
が、納得できない信利は本家に対抗して実際の二倍以上の検地高を報告したり、沼田城に五層もの大天守閣を建てたり、江戸の屋敷を松代藩のものよりも豪華に改装したりします。
そのしわ寄せは領民たちに及び、飢饉でもないのに重税のために餓死者が出るという事態に発展しました。