「やだよバーカ、おしーり(尻)ペーンペン!」
子供のころ、喧嘩でこんなパフォーマンスで相手を挑発したことがあるのは、きっと筆者だけではないでしょう。
子供同士の喧嘩であれば、次の瞬間に蹴りが飛んでくるくらいで済むかも知れませんが、大人同士の戦争ともなると、こうした挑発の代償は命をもって贖(あがな)わしむることも少なくありません。
それでもやらねばならぬ時がある……今回は『日本書紀(にほんしょき)』より、死を覚悟して敵に「お尻ペンペン」を敢行した調伊企儺(つきの いきな)のエピソードを紹介したいと思います。
新羅の王よ、我が尻を噉え……
調伊企儺は百済(くだら。朝鮮半島の古代王朝)系渡来人をルーツに持つ勇士で、欽明天皇23年(562年)7月に新羅(しらぎ。同)征伐軍の一員として日本海を渡りました。
征伐軍の大将は紀男麻呂(きの おまろ)、副将に河辺瓊缶(かわべの にえ)と調伊企儺がつけられましたが、河辺瓊缶は敵の謀略に引き込まれて敗北。捕虜となって命乞いをし、妻の甘美媛(うましひめ)らを身代わりに差し出すことで解放されたそうです。
(※甘美媛らは散々に凌辱され、後に釈放されるも河辺瓊缶を許さなかったと言います。まぁ当然ですね)
そんな河辺瓊缶を横目に、調伊企儺は劣勢の中でなおも徹底抗戦しますが、結局は捕虜となってしまいました。
「オラ、脱げや!」
「おのれ、貴国では敗者に対してこのような辱しめを行うのか!」
「うるせぇ、負け犬が何を言ったってムダなんだよ!」
新羅の将兵らは調伊企儺の袴を脱がせた上、その尻を日本≒に向けるように強要します。
「さぁ、命が惜しければ『日本(やまと)の将(いくさのきみ)、我が尻を噉(食ら)え』と言うのだ!」
水に落ちた犬は、二度と這いあがれぬよう棒で叩けとばかり、徹底的に辱めて憂さを晴らそうとする新羅の将兵に、調伊企儺は敢然と言い放ちました。
「誰が言うかバーカ!『新羅の王(こきし)、我が尻を噉え』ってんだ!」