江戸時代初期の銭湯は混浴であっただけでなく、性風俗のメッカでもありました。
「湯屋」や「風呂屋」と呼ばれる銭湯には、美しい着物を身に纏った湯女(ゆな)たちが常駐。しかも背中を流すだけでなく、性的なサービスまで提供しています。
江戸っ子の多くが1日2回も銭湯に通ったのは、湯女が目当てだったのではないかと言われるほどです。
吉原を超える人気風俗、湯女風呂
湯女が常駐する湯女風呂は、手軽でリーズナブルなことから、吉原を超えるほど絶大な人気を誇りました。
幕府が江戸に移り、土地の開拓をはじめとする大改修が必要であった当時の江戸には、工事関係者や技術職の職人が数万人規模で集まっていました。
江戸に集まった男たちは体力や技術もあるものの、血の気の多い者も多く喧嘩が絶えず、殺伐としていたと言われています。
江戸の治安が大変治安が悪いことから、使用人の求人が出ても、募集されるのは男性ばかり。ますます江戸の町に女性が寄り付かなくなっていきました。
こういった世相もあり、数少ない女性と会える混浴の銭湯は大繁盛したと言われています。さらに湯女のサービスも受けられるとあって、肉体労働者の男性たちが憩いと癒しを求めて集いました。
幕府による混浴禁止令など、どこ吹く風
江戸時代の銭湯は、カップルにとっては格好のデートスポット。単身者にとっても、出会いを求めるのにもってこいの場所でした。
もちろん女性に触りたい、湯女のサービスを受けたい、といったニーズも含め、ですが。それでも当初は、男性はふんどし、女性は湯文字と呼ばれる下着を腰に巻いて入浴していました。
ところが徐々に歯止めが効かなくなり、男女とも全裸で入浴するのが常識になっています。無法地帯と化していく銭湯では、公衆の面前で臆せず性行為に及ぶ強者も少なくなかったと言われています。
こうして銭湯は、痴漢や売春のメッカと化していきました。
これ以上の放任は許すまじと立ち上がったのが、「寛政の改革」を行った松平定信です。
寛政の改革以降も数回にわたって、混浴を意味する「入込湯禁止令」が発令されています。しかし、どれも厳しい規制ではありませんでした。銭湯側としても、混浴を止めれば客が減ってしまうことは明らかです。
また客からも非難轟々であったため、銭湯ものらりくらりと素知らぬふりで通すこともあったそうです。中には、入り口だけ男女で分け、中に入ると混浴という銭湯もあり、規制を掻い潜ろうとする工夫が伺えます。
どんだけ混浴したいの!何度禁止しても復活し続けた江戸時代の混浴の歴史
江戸の人々は頑なに、混浴文化を死守しようとしたのでした。