「娘を解放しろ。さもなくば毎年追手を放ち、日本中からお前らを殲滅してやるからな。」
この脅迫文書は、京都伏見にある伏見稲荷大社に届けられたものを一部抜粋したものです。
しかもこの文書、脅迫者本人が手書きで記して送りつけています。
このような恐ろしい文書を神社に自ら持参して恫喝するとは、一体どんな人物なのでしょう。脅迫者の正体。
それは誰あろう、豊臣秀吉、その人でした。
天下人まであと一歩のところまで上り詰めた秀吉があわや脅迫事件の当事者になり下がろうとは。
一体何があったというのでしょうか。
全てを手に入れた秀吉が切望したもの
農家に生まれ、ひたむきな努力と天賦のコミュ力を駆使し、天下取りに大手をかける直前まで手を伸ばした豊臣秀吉。
一見すると、全てを我が物にしたように見える秀吉ですが、どんなに望んでも手に入れられなかったものが一つだけあります。それが、子宝です。
ド派手すぎる女性関係と子宝に恵まれない不運
秀吉といえば、女好きで女性関係にかなりだらしない人物でした。
最愛の妻と言われ、当時としては珍しい恋愛結婚を成就させた正室のねね(高台院・北政所)。
そんなねねが、秀吉のあまりの女癖の悪さに業を煮やし、織田信長に夫の浮気を嗜めて欲しいと訴えた逸話は有名です。
女好きの秀吉は最愛の正室、ねねがいながら、15人近くの側室に支えられていたと言われています。ところが秀吉の子供の数は10人と言われており、その中でも実子は4人しかいません。
しかもそのうちの2人は、実子ですらなかったという説も有力です。
いずれも短命であった4人の子供たち
秀吉の4人の実施の中で最年長の子は、秀吉がまだ信長の家臣であった頃に恵まれた子です。側室の1人が産んだ子でした。
この子は秀勝と名付けられましたが、6歳で亡くなっています。2人目の子は、側室であった淀の産んだ子で、鶴松と名付けられました。
鶴松は秀吉53歳の頃に恵まれた子であり、秀吉は目の中に入れても痛くないほど鶴松を可愛がったとされています。
しかし鶴松は生まれつき体が弱く、国内外から名医を呼び集めて治療に当たらせましたが、3歳にならずに亡くなりました。
3人目の子は、秀吉が57歳の時に淀が産んだ秀頼です。
秀頼が5歳の時に秀吉が逝去。
その後家督を相続して秀吉の意思を継いだものの、23歳の年に大坂夏の陣にて自害。その短い生涯を終えました。
4人目の子は女の子であったとされていますが、生まれて間も無く亡くなったようで、詳細な記録は残されていません。
このように4人の実子はいずれも短い生涯を終えています。
いずれの子も正室ねねの子ではなく、側室が産んだ子です。
さらに淀の産んだ鶴松と秀頼は、秀吉が不在にしている間に身籠った可能性が高く、秀吉の実子ですらなかった可能性も示唆されています。この世の富の全てを手にしたように見える秀吉ですが、最も望んだであろう自分の子に恵まれることはありませんでした。