戦国時代を代表する武将の一人であり、ファンも多い武田信玄。戦国最強ともうたわれる彼ですが、そんな彼の一番の理解者であったと言われている板垣信方(いたがき のぶかた)について知っていますか?
そこで今回の記事では、そんな板垣信方について、有名なエピソードをご紹介したいと思います!
板垣信方(いたがき のぶかた)とは?
板垣信方は、武田家に信虎の代から仕え、嫡男である晴信(武田信玄)の傅役(もりやく:いわゆる教育係で、当主となる子どもの育成を担当しました)となりました。
武田信玄が家督を継ぐと、板垣信方は甘利虎泰とともに「両職」という武田家の最高職に命じられました。
なお、この二人は同じ職ではありますが、実際の立場では虎泰より信方の方が上だったと言えるようです。
信虎追放の中心に?
武田信虎が今川氏と甲駿同盟を結んだことをきっかけに、今川家と北条家の関係が崩れ、北条市が今川領に攻め込んできます。その一方武田家は信濃への侵略をすすめます。
天文10年(1541年)に信虎が今川義元のもとを訪ねた際、息子の信玄によって帰り道を封鎖され、甲府に戻れなくなってしまいました。これは信虎追放のクーデターですが、その中心となったのが信孝と言われています。
戦国時代、甲斐国を統一した武田信虎!追放後の意外なセカンドライフ
平成三十2018年12月20日(木)、甲府開府500年記念事業の一環としてJR甲府駅北口よっちゃばれ広場(山梨県甲府市)に建立された武田信虎(たけだ のぶとら)公像の除幕式が行われました。信虎…
彼が他の重臣たちを説得してクーデターを実現させたそうです。ちなみにこのクーデターの計画は極秘に進められていたと言われています。