「征夷大将軍の肩書きなどいらぬ」せっかくのポジションを無下にした源頼朝の真意とは?

「征夷大将軍だから鎌倉幕府を開けた」はウソ!?

皆さんご存じの源頼朝(みなもとのよりとも)と言えば、「1192年に鎌倉幕府を開いた人物」として有名ですね。

そしてそれは、「征夷大将軍というポジションに任命されたことで、軍事のトップに立ったから幕府を開くことができた」という流れで現在に至るまで認識されてきました。

ところが、この流れが真実を言い当てているのかどうかは、ちょっと怪しいようです。

征夷大将軍=軍事のトップ=鎌倉幕府、ではないんですね。

一体どういうことでしょう? この記事では、その真実に迫りたいと思います。

朝廷が与える肩書きは「名前だけ」

「征夷」とは、僻地の人々を征服するために軍事力を振るうこと。そしてそれを承認された大将軍が、征夷大将軍だとされています。

しかし朝廷で内大臣を務めた中山忠親による『山槐記』によると、頼朝はこの「征夷大将軍」のポジションには興味がなかったようです。

もっと言えば、征夷大将軍というのはただの名前に過ぎなかったらしい。これはどういうことでしょうか。

『山槐記』によると、まず頼朝は朝廷に対して「私を大将軍にしてください」と要望してきました。

この時、頼朝は「右近衛大将」というポジションに就いていました。ただ、これはもともと貴族が就任する役職で、「右近衛大将」「左近衛大将」ともに、実際には軍事を取り仕切るものではなかったのです。名前だけは強そうなんですけどね。

で、頼朝としては、自分は武士であり貴族ではない。「大将軍」という肩書が欲しい、と希望したのです。

これに朝廷もオーケーを出し、じゃあどういう名前の役職にしようか……ということを考えました。この時、名前の基準になったのはなんと「縁起の良さ」です。どんな役職名なら、よりおめでたいか? が問題となったのです。

この時出た案には、「惣官」「征東大将軍」というものがありました。

しかし過去の事例では、前者は平宗盛に、後者は木曾義仲に与えられています。どちらも非業の死を遂げており縁起が悪い。

では、坂上田村麻呂ならどうか? 彼は征夷大将軍に登用されて結構な実績を上げて人生をまっとうしています。それならいい。じゃあ征夷大将軍にしよう。……ということで、頼朝の肩書は決まったのでした。

これで頼朝は、めでたく征夷大将軍となりました。

ところが彼は、この後何をしたかというと、征夷大将軍を辞めているのです。

せっかく考えてくれたポジションを無下にするのだからひどい話ですが、その経緯はよく分かりません。ただとにかく「征夷大将軍」という肩書には特別な意味も権力もなかったようです。

その証左のひとつとして、当時出された頼朝の命令書で「前右大将家政所下文」というものがあります。

これが出されたのは、彼が征夷大将軍を辞した後でした。しかしこの命令書のタイトルには「前の右大将」とあります。どうやら頼朝は「前の征夷大将軍」でも「前の右大将」でも、どっちを使っても良かったようです。ゆるい言い方をすれば、どうでもよかったのかも知れませんね。

朝廷が与える肩書は「名前だけ」のもので、実は大して意味がなかったらしいことは、その後の歴史を見ても分かります。

2ページ目 鎌倉~室町期の幕府と朝廷の関係

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了