江戸の世が終わり明治に入ると新政府は積極的に西洋文化を取り入れ、人々の暮らしには今日に繋がる新たな習慣と文明が根付いていった。
江戸から明治への目に見えた大きな変化の一つが洋風建築だ。東京の銀座や丸の内を中心に建てられたそれらは文明開化の象徴として多くの浮世絵に描かれ、在りし日の華やかな姿はもちろん “近代国家日本”への歩みを私達に語ってくれる。
「浮世絵で見て歩く華やかな明治時代の洋風建築」と題し、明治の洋風建築を日本橋から寄り道をしながら見てきた。いよいよゴールの銀座が近づいてくる。
これまでの記事東京 銀座や丸の内、日本橋…浮世絵で見て歩く華やかな明治時代の洋風建築【前編】
東京 銀座や丸の内、日本橋…浮世絵で見て歩く華やかな明治時代の洋風建築【中編】
銀座煉瓦街の入り口京橋
さて、第一国立銀行を背に銀座方面へ歩くとまもなく京橋に辿り着く。
京橋三丁目と銀座一丁目を流れる京橋川に架かるこの橋の名称の由来は、「東海道の起点である日本橋から、京へ上る最初の橋であったから」とも言われている。
京橋一帯は水運の便が非常に良く、京橋川の周辺には遠方から多くの作物が集まり、川の北西には通称「大根河岸」と呼ばれた青物市場があった。特に江戸近郊で採れた大根が多く荷揚げされたことが名前の由来である。
その隣りは千葉や群馬から運ばれてきた竹を扱う竹問屋が軒を連ねた。「竹河岸」と呼ばれた一帯は、歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれ、当時の風景を垣間見ることができる。
このように物流の拠点となった京橋が木橋から石橋に架け替えられたのは、明治8(1875)年のこと。施工は浅草橋や万世橋など東京の橋を手掛けた熊本の石工・橋本甚五郎だ。
翌年には京橋から新橋にかけて銀座煉瓦街が完成しており、京橋は華やかな銀座の北の入り口として賑わった。
橋の上を人力車と3頭立て・2階建ての馬車が走っているように、銀座の入り口であったこともあり交通量がかなり激しかった京橋。もともと鉄道馬車の軌道も敷かれた大型の橋であったが、1901(明治34)年に鉄橋へと架け替えられた。
江戸が終わり東京の街並みは西洋風に変化したが、京橋の下には江戸の面影を残すかのように大根を運ぶ高瀬舟が描かれている。江戸から始まった大根河岸と竹河岸はその後も明治・大正・昭和と続いたものの、京橋川が昭和34(1959)年に埋め立てられ、京橋も撤去された。